今回は「カフェゼミ」について書きたいと思う。長岡ゼミでは、大学内の教室で行う通常のゼミのほかに、街の中のスペースを借りて月に一回の頻度で「カフェゼミ」を行っており、最近は様々なゲストスピーカーをお呼びしている。11月のカフェゼミにも、難民ホームステイの活動を行っているWelgeeという団体で共同代表をしている渡部清花さんにお越しいただき、日本における難民をテーマにお話を伺った。
私はカフェゼミの前に、渡部さんとの打ち合わせに同席したが、情けないことにその時まで難民とはどういう人たちのことを指すのか、難民と移民がどう違うのか、いまいち理解をしていなかった。話を聞いていくうちに、難民は自国を捨てて国を逃れてきた人であって、出稼ぎや留学をしているような移民とは全く立場が違うということを知り、難民という言葉をなんとなく知っている気になっていた自分が恥ずかしくなった。
何も知らないままではいられなくなり難民に関して調べてみると、日本は“難民鎖国”という言葉までつけられるくらい、難民の受け入れ態勢はほとんど整っておらず、過去にもいろいろな事件が起きていたことを初めて知った。また、政治的難民として逃れた人の話を読むと、自分が逃げたことによって母国の家族が拘束されたが、自分は国へ帰ることができないのでどうすることもできない、というとても辛いエピソードがあった。これを見て、“国を捨てる”ことがどういうことかやっとわかった気がした。
そしてカフェゼミ当日、渡部さんのほかに日本で難民として、また難民申請者として暮らす3人の方も参加をしてくれた。渡部さんからは日本における難民の厳しい現状の話を聞き、また3人の方もそれぞれ英語や日本語を交えて、自国にいたときの話や日本に来てからの話をしてくれた。聞いているうちに一つ気づいたのは、自分が難民というフィルター越しに彼らを見ていたということ。日本に来る前はみんな同じように仕事をして、家族と暮らしていたのに、いつの間にか難民だから、外国人だからと壁を作って、そんな当たり前のことも見えなくなってしまっていた。
そのあと5人ほどの小さなグループに分かれて対話をした。私のいたグループには、難民の方がひとり入ってくれて直接お話を聞いた。日本に来て何もわからないまま、書類を突き付けられたこと。何度も申請のために遠いところまで通わされ、何時間も話を聞かれ時間もお金も浪費させられたこと。英語交じりだったが、そのときの憤りがとても伝わってきた。しかし、そんな話を聞きながらも、やはり難民と移民の区別がついていないのではないかという質問がグループ内でも投げかけられていてなんだかもどかしくなった。このテーマに出会う前の私くらいの認識の人は、きっとまだまだたくさんいる。
今回のカフェゼミは、日本の社会と多様性について、また自分の考え方について改めて考え直す機会になった。一番は、当事者の話を聞けたこと。ネット上の文字や、本の中の活字ではなく、目の前にいる人から直接その人のことばで実際の経験を聞いたことで、この問題は思っていたより身近なところにあるということに気づくことができた。日本における難民の問題が深刻なものであることもようやく理解できたと思う。とはいえ、国の難民に対する制度はそう簡単に変わるものではないし、変えようと思って変えることもできない。
そんな大きなことを言う前にわたしができることは「知ること」だと思う。小さなことだけれど「知ること」はとても大切だ。話の中で一人の難民の方が言っていた「日本人は世界で起きていることを知らなすぎる」という言葉がとても印象に残っている。日本にも難民がいることや世界で今何が起きているのかを知っていれば、自国から逃げてきたと人にも、そうかそれは大変だったねと、声をかけることができるのに、それを知らないから難民という肩書きばかりを見てしまうし、知らず知らずのうちに壁を作ってしまう。もっと世界の出来事に関心を持つことはもちろん、今回のように身近なところで起きていることを知り、少しでもそういう壁を壊していけたらと思う。
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