MELC(長岡ゼミ)のブログ

哲学対話の授業実践から考えるオープンでフラットな場の可能性

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哲学対話とは

ぼくが哲学対話を初めて参加したのは約2年前のことだった。哲学対話とはその名のとおり哲学的な問いをテーマとし行われる対話のことであり、参加者は車座になって「子どもはなぜかわいいのか?」などの問いを立て、それについて意見を述べあながら考えを深めあう。学問的な意味での哲学にはぼく個人としては正直あまり関心があるわけではない。それでも哲学対話の場において年連も職業もまるでちがう人たちが、「子どもはなぜかわいいのか?」という問いだけを共有し、それぞれの価値観を表明しながら意見を交換していくそのつながり方にはとても強く惹かれるものがあった。「子どもはなぜかわいいのか?」というその場の誰一人として答えを持ち合わせえない哲学的な問いのまえでは、年齢も職業も関係ない。それぞれが「自分なりの答え」を表明し、ほかの人の意見と見比べすり合わせながら答えを探求していくしかない。そのフラットな関係性はとても居心地が良かった。

6月下旬、ある哲学対話の場で親しくなった学校の教員をされている方に招かれて、とある高校の現代文の授業の一環として行われる哲学対話にファシリテーターとして参加することになった。じつはこの先生に招かれて哲学対話を行うのはこれが二度目で、半年ぶり。テーマとなる問いは前回の授業ですでに決めているらしく、

・「部活で頑張ることに意味はあるのか?」

・「誰にも言えないような秘密を持っていますか?」

・「『男心』『女心』って何だろう?」

この3つの問いの中から、生徒は興味のある問いを1つ選び、問いごとのグループに分かれて対話を行った。

 

対話の様子:「『男心』『女心』って何だろう?」

当日学校を訪れると、ぼくと同様に招かれた大学生や大学院生の方々が数人いた。3つの問いのうちぼくは「『男心』『女心』って何だろう?」のグループを担当し、ファシリテーターを務めることになった。授業チャイムが鳴り、教室に入る。大学生になってから改めて眺める教室は、なぜかドラマのセットのようにちっぽけでチープに見えた。自身が高校生だったころを思い返してみて、当時の僕にとって確かに世界の大部分を占めていた教室という空間が、今ではこんなにも狭く安っぽく見えたこと、強烈に奇妙に感じられた。

3つのグループが円になるには狭すぎたため、ぼくらのグループは隣の空き教室に移動した。机を一斉に後ろに下げて、椅子を円形に並べる。「『男心』『女心』って何だろう?」という問いには、10人ちょっとの生徒たちが集まってくれた。隣に座った男子生徒から、「水波先生」と呼ばれてびっくりした。教室の中にいる大人は彼らにとってみんな“先生”らしい。

対話をはじめる前に、まずこの問いを出した生徒に問いを出した背景を聞いてみると、「おれは自分のことを男らしいとも思ってないし、でも、あたり前だけど、女ではなくて。……だから、(世の中で分類分けされているような)『男心』や『女心』って何だろうって、ふと疑問に思って」と答えてくれた。それから、自分たちが身近なところで「男心」や「女心」はどのような文脈で使われているか、考えた。

“例えば西野カナはの曲は、世間的には女心を代弁してるって言われてるけど、そう?”

“違うよ(笑)”

“え、違う?”

“いや、共感する人もいるけど、やっぱりそうじゃないと思う人もいるし……”

“人それぞれだよね”

“人それぞれって言っちゃうと、(すべての女子に共通するような)女心ってなくなっちゃう気がする(笑)”

かわいい服を着たくなるのは女心か? という話題にもなった。しかしそれもボーイッシュな服を着たい女子もいれば、かわいい服を着たい男子もいるだろうから、「女だけが持ちうる心」という意味では女心とは言えないのでは? と意見も出てきた。そんな中、ある男子が部活の大会前に女子マネージャーに対して感じた違和感について話してくれた。

“大会前で、おれらはめっちゃやる気になっている状態で。でも、そんな状況で女子マネは、大会前だからってめちゃくちゃ念入りに化粧してて……。それを見たときに、『あぁ、なんかちょっと、ちがうんだな』って思ったんだよね”

“でもそれも、その人がそういう人だって話じゃない? 選手とマネージャーじゃ役割も違うし”

“うーん、まぁ、そうなんだけど……”

“それでも、その切羽詰まった状況で入念に化粧する女子に対して、女心はわからない、って思ったんだよね? そうすると、なんというか、理解できないことの言い訳として、『女心』って言葉が都合よく遣われている気がする”

このころにはぼくも高校生と混じって、「女心とは?」という問いに対して本気で向き合っていた。それでもやはりよくわからなくて、もっと考えたい、知りたいと思いながら、高校生たちの言葉に真摯に耳を傾けてる自分がいた。冒頭でも軽く触れたように、こうやって世代を超えて人を真剣にさせる魅力が、哲学対話というものの中には含まれている。たとえぼくが“先生”と呼ばれる存在であったとしても、彼らとぼくは少なくともあの空間のなかでは対等に、肩書によって無駄に委縮したり遠慮したりすることなく、意見が言えていた。

知的探求はその後も続く。「男子だけではなく女子も、異性から理解されなかったときの言い訳として、『女心がわかってない』という言い方をすることがある」といった意見や、「男心をくすぐられるって表現があるけど、それってどんな時なの?」といった問いが続いて出てきた。そして対話が終わりに近づいたころ、最後に、隣に座っていた男の子が感想として話してくれたことが印象的だった。

――結局、女心とか男心とか、わかんないから面白いんだと思う。

わからないから、答えが簡単に見つからないから、深く考え、意見を共有できる余地がある。その状態を指して「面白い」と彼は言っているのだろう。理解したいと欲しながら、それでも容易には理解できない現状を楽しむ彼の姿勢は、とても尊いものに感じられた。

 

対話がつくるオープンでフラットな場の可能性

授業が終わった後外客用の応接室に戻って、他のグループの様子について聞いた。最も印象的だったのは「部活で頑張ることに意味はあるのか?」のグループで行われた対話の内容だった。最初に「意味があると思う人」に手を挙げてもらうと、8・9割の生徒が手を挙げた。理由を問うと、「連帯感得られるから」や「社会に出た後うまくやっていくため」といった意見が並んだらしい。しかし、それからもう一歩踏み込んで、「なぜ連帯感が重要なの?」や「本当に社会に出た後、部活で得られるものは役に立つの?」と訊くと、ほとんどの生徒が言葉に詰まり、熟考したという。そして対話を続けるうちに、少なくない数の生徒が部活では不条理なことはたくさんあると感じているし、辞めたいと思ったことが少なからずある、と話したそうだ。それでも部活を辞めないのは、「社会に出たあとに困るから」だとか「部活を辞めても、その余暇でなにをしたらいいかわからないから」という理由が主だという。

話を聞きながら、大学生として眺める教室がとても小さく見えた感覚を思い出していた。高校という環境は、今のぼくからはとても閉鎖的に感じられる。何もこの高校が特別といわけではなく、思い返してみれば、ぼくだって高校生の頃は様々な不条理な出来事を我慢していた。むしろ、こうやってよその人間を招き入れ、こんな実験的な授業実践を行っているくらいなのだから、まだオープンな校風なのかもしれない。

 

――私は“救い”って言葉をよく使うんですけど。

この授業に招いてくださった担当の先生とお話する時間があったので、今回哲学対話を通して、生徒に何を学んでほしかったのかを尋ねたところ、こんなふうに答えてくれた。

――いろんな人と関わりを持ったり、ちがう価値観の人と話したり、……学校に閉塞感を感じている子にとって、そうやって見識を広めることが、少しでも“救い”になればいいなと思っています。

 

生徒を危険から守るという意味では、確かに制度や規則も大切なのだろう。しかし、あたり前ではあるけれど、生徒の価値観はそれぞればらばらだ。決められた制度の中で安心感を覚える生徒もいれば、逆に閉塞感や不自由さを感じている生徒もきっといる。そうしたさまざまな声を一つひとつ丁寧に拾っていくためにも、こうした対話の場を開き続ける必要があるのではないだろうか。いろんな人の考えに耳を傾け、一生懸命自分なりに考え、ちがうと思ったら意見を発信する。ほかの人もまた、それを聞いたうえで、考え、自分の意見を返す――そんな対話の姿勢がみんなにあれば、きっとクラスや学校はより良い方向に変わっていくだろう。繰り返しになるけれど、何が正解かはわからない。それでも、だからこそみんなで考え、みんなが納得する方向に変えていくことができる。そういった自分たちでつくりだしていく協働の姿勢を養いながら、さらに対話という活動を続けてほしいな、と強く思う。

カテゴリー: ヒカル 越境レポート

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