6月27日(土)、京都精華大学の筒井さんが主宰するLeaning Workshop Lab ~オープンでフラットな学びが未来を開く~に行ってきた。筒井さんは大学で「グループワーク概論」という授業を実施している。僕は参加したことがないのだが、その授業は学生と教授だけでなく大学の外からやってくるボランティア(CT)の方、見学に来る方と一緒に創り上げる。今回のイベントは授業をともに作った学外の方、社会への恩返しとして授業で実施している‘オープンでフラットな学び’について関心のある人が集まって語り合える場を設けたものだ。
学校で行われる授業は基本的にはクローズで先生と生徒の関係はフラットではない。しかし、筒井さんは真逆のことをしている。僕たちもゼミを常にオープンでやっているが、誰が履修するかわからない、生徒によってモチベーションも違う授業で学外の人と一緒に‘オープンとフラット’を実現しているのはかなり違う話だと思う。授業をオープンでフラットにすることはとても新しい取り組みで面白そうだと感じ、僕は京都に向かった。
会場は京都市丸太町駅から歩いて5分ほどの築約150年の京都家を改装した‘風伝館’。一階はコミュニティスペース、二階は展示スペースになっている。私が来た時には参加者の半分以上が集まっていたと思う。畳の上で談笑している人、縁側でくつろいでいる人、家の中を歩いて回っている人、ひとりひとりが自由に動いている空間はとても居心地がよかった。
当日の流れは大きく三つに分けられる。まずは風伝館を冒険しお気に入りの場所や物を写真にとって、その写真を見せながら三人一組で自己紹介をする。続いて、筒井さんとCTの方が「グループワーク概論」がどんな授業なのか話して、参加者は感想をシェアする。最後に好きな話題ごとにまとまりを作って自由に対話をした。
筒井さんとCTの方が話す「グループワーク概論」とはこのようなものだった。
始まりは数年前、筒井さんが高大連携授業を体験したことだったそうだ。集まった大学生たちはありきたりな受験のための授業ではなく、皆で盛り上げようという意識が強かった。その時筒井さんは「外部の人がイノベーションを起こす」と感じ、オープンでフラットな授業を取り入れ始めた。
「グループワーク概論」は対人コミュニケーションをグループワークの中で改善する授業で、CTが授業を作っている。CTは学生や20代の社会人がやっている。CTでない見学者は学生と同じグループに入ったり、ただ外から見ているなど関わり方は様々なようだ。教室に学外の人が来ることによって、教員と学生という縦の関係が崩れ、教員と学生と学外という三角関係になる。その多様な人が集まるカオスの状態から創発が起こるというのだ。
僕が最初に思った感想は「ん?筒井さんはなにをやっているんだろう?」だった。筒井さんは学外のCTに授業作りを任せ切っている。授業中の進行をするのもCTだ。去年より以前は自分のしてほしいことを押し付けてしまうことがあったそうだが今はほとんどないらしい。筒井さんに「なぜ任せ切ることができるのか」聞いてみると「ミーティングは一緒にやるから全く知らないわけじゃないけど、自分の想像を越えるものをCTの人たちは創ってくれるから」という。
僕は外部の人間がここまで影響力をもっている授業とそれを許している教員をみたことがなかった。面白いのは今まで教室で一番影響力をもっていたであろう教員が存在感をなくし、それまで教室にいなかった外部の人間が主体になって活動していることだった。僕は「先生のいない授業」という感想を抱いた。
この後、自由対話へと進んだ。僕がいたまとまりでは先生と生徒の関係や肩書きについて話していた。。印象深かったのは相手を名前で呼ぶか、肩書きで呼ぶかという点だった。「グループワーク概論」で今期のCTをしている&E(ニックネーム)は「名前を呼んでもらえるとフラットな関係だと感じる」「筒井さんに先生と呼んだら、やめてくれと言われた」と言っていた。高校で教師をしていた大木さんは「教員が自分のことを‘先生’と呼ぶ人もいた」と話していた。
僕はこれまで名前で呼ぶか先生(肩書き)と呼ぶかなんてことはあまり意識したことがなかったが、なぜ筒井さんは‘先生’と呼ばれるのが嫌だったのか考えてみると、このWSの場に限らず自分を‘先生’だと思っていないからだと思った。
僕のイメージする‘先生’は教える者だ。しかし、「グループワーク概論」での筒井さんは明らかに教える者ではなかった。つまり、筒井さんのイメージする‘先生’がすることと筒井さんのしていることが違うから‘先生’と呼ばれるのを嫌うのではないか。少なくても僕にとっては‘先生’ではなかった。自分のことを肩書きで呼ばない、呼ばせないのはその肩書に囚われない振る舞いをしているからだと思う。
僕には「グループワーク概論」という授業における筒井さんの立ち位置を先生やファシリテーターといった一言で表せなかった。CTという新しい要素が授業に入ってきたことで、教える先生はいなくなった。オープンでフラットな授業では教室で先生と呼ばれていた人の役割はなくなり、別の‘何か’になっていた。この別の‘何か’になろうとすることが、新しいことをしていくうえで一つのポイントになるのではないかと感じた。
こんなことを考えながらWSを終えた。僕は今回初めて‘町家’の中でWSに参加したのだが、畳の上であぐらをかいて対話をするのはカフェや会議室を使うのとは少し違った。自然にリラックスした体勢になり、より相手を近くに感じる場だった。
WSの後には食事会があり、筒井さんたちがすばらしいお菓子、オーガニックな料理やワインを用意してくれた。座卓を囲って参加者の方々と飲んだり、食べたり、話したりして、‘町家’の魅力にも触れられた一日だった。
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