ブログ Written by Takeru NAGAOKA

The 5th Night @DK

(こちらの記事は、2010年産業能率大学 総合研究所で行われた「イブニング・ダイアローグ@代官山」について執筆したコラムを、再編集し掲載したものです)

 2年目を迎えた「イブニング・ダイアローグ@代官山」、そのThe 5th Night開催に当たって、私たちスタッフの間で改めて確認しあったことがありました。
 それは、「学びのサードプレイス」ということについてです。これまでも様々な機会に言ってきたことですが、この言葉は、研修・セミナーとも、仕事の現場とも違う、まだ命名されていない新しい学びの場を探ろうとする意志の表明です。そして、「サード」とは何かという明確な定義が存在する訳ではありません。大切なことは、新たな場の創造を目指すそれぞれの人が、それぞれの思いをかたちにしていく活動の輪を広げることだと、私は考えています。
 では、私たちスタッフが「イブニング・ダイアローグ@代官山」に込めようとしている思いは何なのでしょうか? その思いを自分たち自身に問い直し、次のような言葉で表現してみました。

Casual & Stylish Learning

 プロジェクトの発足以来、私たちが考えてきたのは、アンラーン(unlearn)のための場ということです。日本語では、「学習棄却」、「学びほぐし」などと訳されていますが、矛盾するような2つの概念が1つの言葉に込められていることに、私自身はとても魅力を感じます。二元論的な思考を脱却するヒントが隠されているように思えます。「学びとはかくあるべき」という凝り固まった考えからおこる弊害を克服しようという意図がこの言葉に込められているのなら、「学び」と「学びでないもの」を分けてしまっている私たち自身の二元論的なまなざしにチャレンジすることが、その第一歩となるのではないでしょうか。
 これまで、私たちは「学び」という言葉に、もっぱら「よい(正しい)行い」という意味を付与してきたような気がします。そのこと自体は大きな問題ではないかもしれませんが、「カジュアル」や「スタイリッシュ」という言葉を「学び」と結びつけることに違和感を覚えるなら、「学びとはかくあるべき」という凝り固まった考えが、私たちの心のどこかにあることを暗示しているのかもしれません。
 一見矛盾するように思える言葉同士を結びつけた「カジュアルで、スタイリッシュな学び」というコンセプトは、「学びとはかくあるべき」という考え自体をアンラーンしようという、私たちスタッフの思いを表現しています。そして、この思いをかたちにしていこうとするなら、重要なキーワードとなるのは"違和感"だと思います。それは、私たちが心の中にもつ無意識の固定観念に気づくきっかけとなるはずです。

 さて、5月28日、「研修はどうなる?研修をどうする?:人材育成の未来にある「研修」の姿を考える」というテーマで開催したThe 5th Night @DKには、東京大学・中原淳先生にお越しいただきました。おそらく、従来的なセミナーなら、ゲスト講師の語る「研修の未来像」を聞くことが中心となっていたでしょう。しかし今回の集いでは、敢えて「参加者同士での語り合い」を中心に据え、中原先生に私たちのねらいをご理解いただいた上で、参加者の対話を聞いてのコメントと、問題提起のみをお願いしました。そして、「研修はどうなる?研修をどうする?」という問いへの答えには触れずに、「人材育成はなぜ必要なのでしょう?」という更なる問いかけで講義を終えていただきました。
 おそらく、参加していただいた多くの方々は「今回のテーマについて、中原先生はどのような話しをするのだろう」という期待をもっていたことでしょう。でも、そのような期待を予想した上で、敢えてこのようなプログラム内容としたのは、今回の集いを本当の意味での「主体的参加」のあり方を考える機会としたかったからです。

 近年、話を聞くだけでない、いわゆる参加型の「学びの場」が数多くうまれています。しかし、タイムテーブル上では参加者同士の対話の機会が設けられているものの、基本的な場のデザインとしては「話しを聞くこと」をメインに据えていることが多いような気がします。これらは「参加型」とは言っても、「リアクティブな参加」にすぎないようにも思えます。でも、私たちは「リアクティブな参加」に違和感を覚えることはなく、むしろ"心地よさ"を感じています。この"心地よさ"は一体何を意味するのでしょうか。
 The 5th Night @DKでは、「レクチャーから対話へ」という順序を逆転し、「対話からレクチャーへ」という時間の流れで場を構成していきました。また、レクチャーの中身も「答えを提供する」ものではなく、「更なる問いを投げかける」ものでした。これらの点について何となくしっくりこないと感じられた方も多かったかもしれません。実は、私もある種の"違和感"を覚えた一人です。でも、私にとってその"違和感"は、「リアクティブな参加」に対して感じてきた"心地よさ"の意味を、ほんの少し明らかにしてくれたような気がしています。

 どうも私たちは、「教える/教わる」という役割関係を保持する、予定調和的な時間の流れと場の構成に慣れすぎているようです。そして、「参加型の学び」が標榜され、途中経過では「教える/教わる」という関係が崩されるように感じられたとしても、最終的には、ファシリテータが慣れ親しんだ関係の存在を確認させてくれるような場の構成に対して、私たちは"心地よさ"を感じてきたような気がします。予定調和が約束されているからこそ、スリルを楽しむことができます。そして、そのスリルが大きいほど、予定調和的な終結に感じる"心地よさ"も大きなものとなります。でも、その"心地よさ"が、私たちが予定調和から決別することを妨げてきたとは言えないでしょうか。
 まだ確信をもって言うことはできませんが、おそらく、「アンラーンを教わる」ことはできないはずです。だとすれば、「教える/教わる」という関係への予定調和に対して真剣なまなざしを向けることは、意味あることのように思えます。
 もちろん、たとえ健全で建設的な意識にもとづくものであれ、慣れ親しんだことを批判的に見ることで生じる"違和感"を歓迎する人はいないでしょう。やはり、それは嫌なもので、できれば避けたいと思うのも当然です。一体どうすれば、うまくつきあっていくことができるのでしょうか。これはとても難しい問題です。でも、考え続けることが大切だと、私たちは考えています。まずは、カジュアルでスタイリッシュな感覚を「学びのサードプレイス」に持ち込むことで、このアポリア(難題)にチャレンジしてきます。

2010年7月29日
長岡 健

T. Nagaoka

コメント

What's New

twitter